■【龍造寺氏、松浦攻めに失敗】天文十三年(1544)11月23日
龍造寺氏が肥前上松浦の大川野城に攻め掛かるが失敗、一族の将多数が討死する。
龍造寺氏は肥前佐嘉の豪族で、戦国期の初めには筑後の名族・少弐氏の被官でした。少弐氏は周防の大内氏と戦っていましたが、少弐軍の主力は龍造寺氏であり、特に水ヶ江龍造寺氏の家兼は知勇兼備の名将として知られています。龍造寺氏は隆信の代に九州北西部を席巻、大友・島津氏と三つどもえの勢力争いを繰り広げることになります。
龍造寺氏中興の祖と言われる家兼は、享徳三年(1454)に十四代康家の四男として生まれ、水ヶ江龍造寺氏を興しました。特に享禄三年(1530)の田手畷の戦いでの活躍は有名で、自軍の敗色が濃くなった際に奇策を用いて大内勢を破り、結果として筑紫尚門・朝日頼貫らを討ち八百あまりの首級を得るという大勝を収めています。
さて天文十三年(1544)十一月、龍造寺氏の台頭を快く思わない少弐氏の家臣馬場頼周が謀略をめぐらし、西肥前の地侍衆にも通じた上で資元の跡を嗣いだ冬尚に讒言して龍造寺氏を討とうとしました。その計画とは、西肥前の地侍たちが蜂起したところを龍造寺氏に討伐に向かわせて力を弱らせ、その上で一気に本拠の佐嘉城(佐賀市)を落とすというものでした。そうとは知らない家兼は冬尚の命により出陣、上松浦大川野城(佐賀県伊万里市)の鶴田因幡守を攻めます。しかし城方は屈せず、この日の戦いで龍造寺伯耆入道剛雲・同隠岐守・同日向守らが戦死しました。やがて鶴田方とは和議となりますが、馬場頼周の思惑通り龍造寺氏は戦力を低下させる形になったわけです。翌年正月には千葉胤連とともに有馬氏攻撃に出陣しますが、十六日の藤津郡における戦いで龍造寺右京亮が戦死しました。十八日には軍を返しますが、敵の追撃に遭って於保備前守・龍造寺新五郎が戦死、かろうじて佐嘉城に帰還できたものの、城は少弐冬尚の命を受けた西肥前の国人衆二万の大軍に囲まれます。
この状況にほくそ笑んだ馬場頼周は、あと一押しで龍造寺氏を滅ぼせるとばかり、城中へ入って家兼と話し合いました。難を避けるためには家兼が筑後へ移って隠居すること、嫡子の豊後守家純・二男和泉守家門と孫三郎純家は筑前へ赴くこと、家純嫡子の六郎次郎周家・家門嫡子の三郎家泰(いえひろ)と孫八郎頼純は自分とともに冬尚に拝謁して謝罪すること、こういった条件を持ちかけました。やむなく応じた家兼は一門衆を冬尚の元に向かわせまますが、これこそ頼周の謀略でした。龍造寺家一門の嫡子ら六人は皆殺しにされ、佐嘉城へは小田政光が城代として入り、家兼は筑後一ツ木に追われて浪人することになります。
しかし三月になって家兼は鍋島清久らの助力を得て再起、四月二日には肥前祇園岳を急襲して恨み重なる馬場頼周・政員父子を討ち取っています。