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戦国魂 今日の出来事

■【上杉景勝が家康の入京要請を拒否】慶長五年(1600)4月1日

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徳川家康が上杉景勝に入京を要請するが、景勝はこれを拒否する。

 豊臣秀吉の没後、徳川家康は政治的な意図から伊達・福島・蜂須賀氏らと縁組みを整えますが、これは秀吉が生前に定めていた「大名家同士が勝手に婚姻を結んではならない」という事項に明らかに抵触するものでした。当然これを聞いた前田利家・石田三成らは怒りますが、利家は慶長四年(1599)閏三月三日に病没してしまいます。しかもその翌日には朝鮮の役で三成に恨みを持つ福島正則ら七将が三成を襲撃、結局三成は家康に身を守られた代わりに蟄居させられてしまうことになります。

 三成が政権から外されたのを目にした景勝は八月初旬に京を発ち、二十二日に会津に帰国します。そして翌年二月にかけ神指(こうざし)城を築城するなど領国内の城の普請や道路整備を行い、武器を調達し浪人を召し抱えました。これは家康から見れば明らかな戦闘準備であり、春日山城(新潟県上越市)の堀秀治・出羽角館城(秋田県仙北市)の戸沢政盛らからは「景勝に謀反の企てあり」と報告がもたらされます。加えて景勝の重臣で津川城代の藤田信吉が直江兼続と対立して家康のもとへ出奔、「謀反」の事実を告げるという事件が起きたため、家康はこの日、京都相国寺内豊光寺の臨済僧・西笑承兌を通じ、景勝に書状を送りつけ上洛を促しました。

 しかし上杉家は世に「直江状」と呼ばれる返書で、家康にこう答えました。

 「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、どんな間違った風説が立とうとも何ら不思議ではない。また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具を調え人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。道を整え河川を修復するのは領民のため以外に何があろう。一国の領主として当然のことではないか。それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。我々は心ない人々の告げ口にいちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。このような理不尽なことで我らを咎められるおつもりならばそうされよ。いつでもお相手をいたそう」

 家康相手にここまで言い切ったのは、日本広しと言えども直江兼続ただ一人でしょう。そして歴史は家康の上杉家征伐〜関ヶ原合戦へと動きます。