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■【足利義稙が周防へ下向】明応八年(1499)11月22日

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将軍足利義稙が近江守護六角高頼らに攻められ、周防の大内義興を頼り下向する。

 後に流れ公方、越中公方、島公方などと呼ばれた室町幕府十代将軍・足利義稙は、八代将軍義政の弟・足利義視の子として文正元年(1466)に生まれました。義視は義尚と将軍位を争いますが、これが応仁の乱の原因となって大戦が勃発、敗れた義視は土岐成頼に伴われて美濃へ逃れました。義稙は初め義材(よしき)と名乗っており、延徳元年(1489)三月に九代将軍・義尚が近江鈎(まがり=滋賀県栗東市)の陣中に没すと、父とともに美濃から上洛して十代将軍となりました。

 明応二(1493)年二月、義材は畠山基家討伐に向け畠山政長と河内正覚寺(大阪市平野区)に出陣しますが、義材不在の京都で細川勝元の子・政元がクーデターを起こし(明応の政変)、四月二十二日に天龍寺塔頭香厳院の僧・清晃(後の義澄)を迎えて十一代将軍としたため、義材は将軍位を奪われてしまいました。義材は一旦正覚寺から大和筒井城(奈良県大和郡山市)へ入りますが、政元内衆の上原元秀に生け捕られ、元秀の京都屋敷に幽閉されます。しかし義材は隙を見て京都を脱出、神保長誠を頼り越中放生津(ほうじょうづ=富山県新湊市)へと向かいました。

 義材は放生津に五年滞在しますが、そこへ公家衆や大和の一部の国人など、義材と関係の深い人々が集まったため越中に幕府が移ってきたような状況となり、ために彼は越中公方とも呼ばれています。その後、越前一乗谷の朝倉貞景のもとに移って義尹(よしただ)と改名、同八年(1499)に三千の兵を率いて近江坂本まで兵を進め、比叡山延暦寺の僧らを加勢につけて帰洛を画策しました。細川政元は同族の細川政春を迎撃に差し向け、六角高頼は湖水を渡って義尹勢に攻め掛かり、火を放って陣を焼き払いました。結局入洛は果たせず、この日敗れた義尹は周防の大内義興のもとへと流れて行きました。

 義尹はしばらく周防山口に滞在していましたが、義興の助力を得て上洛の途につき、永正五(1508)年四月に細川高国・畠山尚順らに迎えられて泉州堺に入りました。六月に入京して一条室町の吉良屋敷に入った義尹は、七月一日に従三位権大納言に任ぜられてついに将軍位に還補、前将軍義澄は解官されました。義尹は同十年に義稙と改名しますが、次第に管領細川高国の専横が目立ち対立、大永元年(1521)には京を追われて淡路沼島(ぬしま)へ渡り、このため島公方とも呼ばれることになります。

 正に流浪の人生を送った義稙は二年後の四月、阿波撫養(むや=徳島県鳴門市)で没しています。