【功名が辻コラム】 「功名が辻」を追う!
Vol 13. 一国一城の夢
一領具足
一豊は土佐一国の主となったが、旧土佐国主・長宗我部盛親の動きを追ってみよう。
盛親は関ヶ原合戦では西軍に属して南宮山の東南麓・栗原村に布陣していたが、さしたる動きを見せないまま西軍敗戦となり、伊勢路より伊賀を経由して和泉へと逃れ、九月下旬に本国土佐へたどり着いていた。盛親は家臣の立石助兵衛らを井伊直政のもとへ遣わし、直政を介して家康に謝罪しようとするが、同時に浦戸城(高知市)へ籠もって家康方の軍勢と一戦を交える準備も始めたのである。そして城の普請を急遽行い、農民を徴発して万一の場合に備えながら、井伊直政の勧めに従って十一月十二日に上坂、やがて家康に拝謁し謝罪した。
しかし、盛親は家康に謝罪する前に大きな過ちを犯していた。兄の津野親忠を殺害してしまったのである。盛親は元親の四男で、長兄信親と次兄(香川)親和は既に他界していた。親忠は藤堂高虎と親しかったことから、高虎を通じて家康に長宗我部家の存続を懇願、とりあえず一応の内諾を得ていたという。しかし、このため「親忠が家康に取り入って土佐半国を支配しようとしている」という噂が立ち、これを信じた盛親が殺害してしまったのである(一説に盛親に讒言したのは重臣の久武親直ともいう)。この所行に怒った家康は盛親を処刑しようとした。直政の取りなしで死罪こそ免れ得たものの、盛親は土佐一国を没収され浪人となり、京都へ移り住んで大岩祐夢と号し、寺子屋の師匠をして生計を立てたという。
さて、一豊が浦戸城を受け取るにあたり、家康は井伊直政に一旦城を接収させた上で一豊に引き渡そうとしたのだが、これが一筋縄ではいかなかった。
十一月十九日に井伊直政の家臣・鈴木平兵衛らが盛親の書き付けを持参して船で土佐へ下った(少し遅れて一豊の弟・康豊も向かっている)が、浜辺には「一領具足」と呼ばれる長宗我部家の郷士たちが千挺の鉄砲の筒先を向けて待ち構えていたという。そして十二月に入ると一領具足たちは宿老の桑名弥次兵衛を中心に担ぎ上げて浦戸城へ籠もり、鈴木らを討とうとした。これが浦戸一揆である。しかし弥次兵衛ら老臣たちは協議の結果、既に城の明け渡しを決定していた。つまり弥次兵衛は偽って一揆勢の首将となることを引き受け、入城したわけである。
弥次兵衛が平兵衛らを城内に引き入れて開城を約束すると、謀られたと知って激昂した一揆勢は城に押し寄せた。しかし弥次兵衛ら老臣らはこれを討ち破り、追撃を加えて一揆勢を一掃、十二月五日に浦戸城は平兵衛らに接収され、程なく康豊に引き渡されたのである。家康としても何もこのような面倒なことをせず、初めから一豊に鎮圧を命じておけば良いようなものだが、これには政治的な意図があった。あくまで土佐は家康から一豊に与えたものだということを、公然と示す必要があったからである。
土佐入国
浦戸一揆鎮圧の知らせを聞いた一豊は、大坂を出帆して土佐へと向かった。その道中、こんなエピソードが残されている。
一豊は家臣の五藤為重に、「浦戸までの道中で気に入った所があれば、どこでも所領として与える」と先に伝えてあったという。為重は伊勢亀山城の戦いで討死した吉兵衛為浄の弟で、一豊は吉兵衛の長年の功に報いるつもりであった。一行は土佐・阿波の国境付近に位置する甲浦(かんのうら)に上陸してから陸路を進んでいたが、安芸郡に入ると眼前に平野が広がっていた。為重が早速「ここを頂きたい」と一豊に言うと、一豊は即座に「安芸は五藤の所領である」と宣言して許した。ところがさらに進むと、安芸郡以上の広大な平野が出現したため、為重は非常に残念がったという。ちなみに為重は山内家の家老となって約束通り安芸土居を支配した。
こうして一豊は慶長六年正月八日に浦戸城に入ったが、依然として新領主に反感を持つ郷士たちは多く、百姓の逃散も続いていた。そこで一豊は密かに反抗する者のリストを作ると、三月一日に入部祝いと称し、浦戸桂浜において相撲を興行した。
裏(真?)の目的は反抗者の捕縛と処刑である。 そして集まった反抗勢力の一領具足たち七十三人を捕らえ、磔に処した。これにより、完全に不穏な動きが封じられたというわけではなかったが、当面の危機は脱したのである。
そしてこの後にちょっとしたエピソードがある。
この年の九月二十三日、徳川家康の命により一豊は関ヶ原の際に西軍に属して所領を没収された、旧豊前小倉城主の毛利吉成・吉政父子を預かった。毛利吉成は一豊と懇意であったが、関ヶ原の際には毛利秀元勢と共に南宮山に陣を構え、周知の通り秀元は山を降りることなく西軍の敗戦となったため、戦後吉成も所領を没収された。吉成父子は当初、肥後の加藤清正の預かりとなる予定であったが、一豊が特に家康に願い出て引き取ったのである。その理由は、元々仲が良かったこともあるが、関ヶ原の戦いに至る一連の動きの中で石田三成ら西軍首脳が諸将の妻子を人質として確保しようとした際、千代が吉成の好意により便宜を与えられたからという。このため、恩義を感じていた一豊は敗軍の将・吉成の境遇を座視できず、自国で預かり丁重に遇したのである。おそらく千代の口添えもあったことであろう。吉成は慶長十六年五月に土佐で没すことになるが、それまでは不自由なく余生を送った。 しかし、子の吉政の人生にはもう一波乱あった。
徳川・豊臣両家の雲行きが怪しくなった同十九年十月、吉政は豊臣秀頼の招きに応じて土佐を脱出、大坂城へ入った。大坂の陣で豊臣方の主力の一員として活躍、夏の陣では徳川方の猛将・本多忠朝(平八郎忠勝の二男)を討ち取るなど大活躍をし、ついには秀頼に殉じて自刃した毛利勝永は、この吉政のことである。
さて、一豊は土佐を治めるのに浦戸城では不適と判断、大高坂山に新城を築いた。高知城である。ちなみに築城総奉行は百々(どど)越前守安行(綱家)が務めたが、百々越前は初め織田信長に仕え、のち信長の孫で岐阜城主・織田秀信の家老となり、関ヶ原合戦の前哨戦・岐阜城の戦いで東軍に敗れて以来浪人して京都に蟄居していたところを、一豊が七千石で召し抱えた人物である。新城は慶長六年九月に着工、本丸と二の丸が完成した同八年八月に一豊は新城へと移った。一豊はその間(同八年三月)に従四位下土佐守に叙任されており、ここに新領国土佐の本格的な支配が始まった。
しかし、試練はこの年の十一月にいきなりやってきた。既得権益を守るために新たな検地実施を阻止しようとする長宗我部氏の遺臣と、年貢米の減免を要求したものの容れられず、領主の弾圧に耐えかねた百姓たちが団結蜂起して一揆を起こしたのである。これは滝山(本山)一揆と呼ばれるもので、首謀者は長岡郡下津野の郷士・高石左馬之助であった。高石らは鉄砲を装備して滝山に籠もって抵抗、鎮圧に向かった家老の山内刑部(一照)らを苦しめるが、結局は力尽きて瓜生野に逃れ、さらに翌年二月に讃岐方面へと逃れて事態は収拾した。いきなり治政において少々失態を演じた形の一豊であったが、以後長宗我部旧臣たちとの武力衝突が起こることはなかった。
一国一城の夢
一豊は慶長十年(1605)九月二十一日、急病により六十一歳の生涯を終え、真如寺山へ葬られた。法号は大通院殿心峯宗伝大居士。家督は一豊の弟康豊の長男・忠義が嗣ぎ、康豊がこれを後見した。忠義は翌十一年四月十七日、家康の弟・松平定勝の二女阿姫を室に迎えることになるが、家康は阿姫を自分の養女として忠義に嫁がせ、豊後玖珠郡にて千石の化粧田を与えている。
千代は一豊の死を看取ると、翌日妙心寺七十四世・単伝士印に乞い、法号「見性院」を授けられた。
家督相続が無事に済み、もはや土佐山内家に対する自分の役目は終わったと判断した見性院は、翌年三月に土佐を離れて京都の伏見屋敷へと移った。一豊との間には一人娘の与禰姫を授かったが、天正十三年十一月の大地震で失っていた。それ以後子には恵まれなかったが、一豊夫妻は代わりに捨て子を引き取って「拾」と名付け、養子としていた。お拾いは成長の後、妙心寺住職・湘南宗化となるが、見性院は血の繋がりこそ無いものの、「我が子」の湘南和尚を頼って京都へとやってきたのである。彼女は妙心寺近くの桑原町に隠居屋敷を建ててもらい、完成すると伏見から移り住んで余生を過ごした。隠居料として千石が与えられ、身の回りの世話は山内家の家臣数人が務めたという。
その後見性院は京都で静かに隠居生活を送っていたが、元和三年(1617)の秋に病を得た。当主の忠義はこの年の六月から京都に滞在していたが、職務が終わっても土佐には戻らず見性院の看護をした。九月になって病状が一時小康状態となったため忠義は土佐へ帰国するが、再び病状が悪化し、見性院は十二月四日に奇しくも夫・一豊と同じ六十一歳で世を去った。法号は見性院殿?(き)宗紹劉大姉。
一豊に嫁いで以来ずっと苦楽を共にし、二人三脚で戦国乱世を生き抜いてきた彼女は、正に一豊の糟糠の妻であった。
夫妻の墓は京都妙心寺大通院に、また一豊の墓は高知市筆山町の山内家墓所にもある。
by Masa