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戦国魂 今日の出来事

■【古田織部が陣中で茶会】慶長十九年(1614)11月27日

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 徳川方の古田織部が合戦中に佐竹義宣の陣へ行き茶会を催し、敵に狙撃され負傷する。

 古田織部こと古田織部助重然(しげなり)は重定の子として天文十三年(1544)に生まれました。中川清秀の従兄弟に当たり通称は左介、初め景安と名乗り織田信長に仕えました。天正二年(1574)より荒木村重の与力となりますが、同六年の村重謀反の際には村重の下を離れたようで、信長から村重方にいる茨木城(大阪府茨木市)の中川清秀を調略するよう命じられます。重然は福富平左衛門・野々村三十郎・下石彦右衛門とともに茨木城に赴き説得しますが、清秀は頑として応じません。しかし重然は何度も城へ行き言葉を尽くして翻意を促し、ついに清秀を信長方へつけることに成功、信長は大いに喜んで重然を賞したと伝えられます。

 信長没後は秀吉に仕え、秀吉晩年にはお咄衆を務めています。関ヶ原合戦の際には東軍に参じ、三千石から一万石へと加増されました(封地不明)。重然は武将というより千利休門下高弟の茶人としての方が有名で、こちらでは徳川秀忠の師匠を務めています。

 慶長十九年(1614)のこの日、重然は大坂城の豊臣氏を攻囲中の徳川方の中にいました。前日には今福・鴫野で衝突が起こっており、まさに大坂冬の陣が始まったところでした。そんな中、重然は無断で持ち場を離れて佐竹義宣の陣所を訪ね、あろうことか茶会を催したのです。それだけならまだしも、彼は陣中とて茶杓にできそうな竹を周囲で探していたところ、大坂方の兵に銃撃されて頭に負傷しました。通常なら諸将から蔑視されて当然の行為でしょうが、重然の場合は違いました。戦場においても数寄の心構えを忘れていないのはさすがだ、とっさに袱紗(ふくさ)で血止めをしたのは大宗匠らしい、等と皆が褒め称えたのです。茶の道で重然と付き合いのある武将も多かったからでしょう。一方、これを聞いた家康は、戦場で持ち場を勝手に離れて茶を飲むなどもってのほかで、その上に竹を探していて敵に撃たれるとはあきれ果てた不心得者よと怒りますが、侍医を差し向けて手当を行わせています。

 実はこの戦いの前、重然は方広寺大仏殿の梵鐘銘問題で徳川方から難癖を付けられた起草者の清韓和尚を招いて茶会を催しており、家康の激怒を買っていました。そのため当初家康は重然を無視して兵を挙げ、あわてた重然は釈明してようやく従軍を許されたという経緯があったのです。そして翌年四月、事件は起きました。

重然の家臣・木村宗喜らが家康暗殺を企てたとされ、板倉勝重に捕らえられたのです。情報をもたらしたのは大坂方の将・御宿勘兵衛といわれます。首謀者の木村らは即刻処刑されましたが、重然も当然主人としての責任を問われました。しかし一切申し開きをしなかったため、六月十一日に長男重広とともに宇治木幡の自邸で自刃しました。

重然の晩年の生き様は、どこか千利休に似たところがあったような気がします。