■【今福の戦い】慶長十九年(1614)11月26日
徳川家康方の佐竹義宣・上杉景勝が大坂方の後藤基次・木村重成と今福で激突、大坂方が勝つ。
方広寺大仏殿の梵鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という字句に難癖を付け、思惑通り豊臣家征討の兵を挙げ得た徳川家康は、二十万近い大軍を動員して大坂城を囲みました。一方の大坂方も長宗我部盛親や後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、明石全登ら有能な士と十万近くの兵を集め、広大かつ堅固な大坂城の防御力を信じて意気盛んなものがありました。城周辺の各所にも砦や防御策を設けて迎撃体勢を取りますが、そのうちの今福堤(大阪市城東区)には四重の柵を構築し、大野治長の将・矢野正倫と飯田家貞がそれぞれ三百の兵を率いて守っていました。
この方面の徳川方は、十一月二十五日になって上杉景勝が鴫野口に、佐竹義宣が京橋口に、それぞれ着陣していましたが、家康は両隊に使者を出し、「明朝同時に西軍を撃退せよ」と命じました。これを受けた佐竹隊では、この日の夜明けより渋江政光が鉄砲隊と槍隊を率い、梅津憲忠も加わって今福堤へと向かい、第一の柵で戦いが開始されました。戦いは徳川方が圧倒的に優勢で、四ヶ所とも守備拠点を奪われた上に矢野と飯田は佐竹勢に討ち取られてしまいます。
大坂城で状況を知った木村重成は、ただ一騎で城を駆け出て行ったといいます。やがて家臣たちも追いつき、これを見た佐竹隊は第二柵へ退却します。そこへ重成の家臣たちが攻めかかったため、佐竹隊はさらに退却しますが、横合いから上杉景勝隊が援護射撃を加えたため、木村勢は堤の上に伏せて銃弾を避けました。城内の菱櫓に上って戦況を遠望していた後藤基次は、傍らにいた豊臣秀頼から「木村を援けよ」との命を受けると直ちに戦場へ駆けつけました。兵数は重成勢と合わせて三千となり、士気は大いに上がりました。基次は秀頼の命令として重成と交代しようとしますが、重成は「あなたは戦歴豊富だが私は今日が初陣、どうか私にやらせて欲しい」と懇願したため、基次は手分けして佐竹勢に当たることにしました。
そして佐竹勢が疲れた兵を交代させようとした一瞬の隙を衝いて両名で突撃を敢行、基次は銃撃により左腕を負傷しますが奮闘し、重成と力を合わせて渋江を討ち取るなど大きな戦果を挙げました。佐竹勢は百七十余の戦死者を出した上に梅津も負傷したため、上杉隊に援軍を要請しました。景勝は水原親憲に救援に向かわせ、親憲は木村隊の側面から銃撃を加えます。そこへ榊原康勝や堀尾忠晴も加勢したため、重成勢は苦戦に陥りました。そこで兵の疲労を感じ取った重成は、柵を修復した後に兵を引き、この日の戦いは終わりました。
その日、秀頼は重成と基次の奮闘を賞し、両人の家士十九名に金一封を与えています。