■【三瀬の変】天正四年(1576)11月25日
織田信長の意を受けた藤方刑部大輔・柘植三郎左衛門・滝川三郎兵衛らが北畠具教を伊勢三瀬館に襲い、これを討つ。具教享年49歳。
最後の伊勢国司となった北畠具教は晴具の子で、享禄元年(1528)に生まれました。戦国期の北畠氏は強大な軍事力を持ち、晴具の代には南伊勢五郡を中心として志摩・熊野および伊賀の南二郡と大和宇陀郡にまで支配が及んでいました。晴具が永禄六年(1563)九月に没したため具教が跡を嗣ぎますが、その頃尾張の織田信長は三河の松平元康と同盟を結び、美濃・伊勢進出の機会を虎視眈々と窺っていました。
同十年春、信長の命を受けた滝川一益は北伊勢に侵攻、員弁・桑名両郡を押さえます。一方で信長は念願の稲葉山城(岐阜市)攻略に成功、斎藤龍興を追い出して岐阜と改め居城を移しました。さらに翌年には足利義昭を擁して上洛、同時に再び矛先を北伊勢に向けると、神戸氏には三男の三七丸(のち信孝)を、長野氏には弟の信良(のち信包)をそれぞれ養子として送り込み、北伊勢一帯を事実上掌握することに成功しました。
同十二年八月、信長は本腰を入れて伊勢攻略に向け出陣、具教は一族を大河内城(三重県松阪市)に集めて籠城しました。信長の先陣を務めた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、支城の阿坂城を落とした際に左脇の下(あるいは左腿)を矢で射られて負傷していますが、これが秀吉の生涯唯一の負傷とされています。勢いに乗った信長は大河内城を囲み猛攻を加えますが北畠勢も頑張り、なかなか城は落ちません。そこで戦いが長引くのを憂慮した信長は、二男の茶筅丸(のち信雄)を北畠氏の養子とすることで和睦を持ちかけ、具教もやむなく応じて十月四日に開城しました。
具教は三瀬館(同大台町)に移って隠居しますが、和睦とは名ばかりのもので信長に対する反感や不安は消えるはずもありませんでした。一説に茶筅丸を軽んじたとか武田信玄に内通していたとも言いますが、事実かどうかはさておき、具教の心情的には頷ける気がします。しばらく目立った動きはありませんでしたが、悲劇は突然やってきました。
天正四年(1576)のこの日の朝、信長の意を受けた藤方刑部大輔・柘植三郎左衛門・滝川三郎兵衛らが三瀬御所を急襲しました。具教は塚原卜伝門下の剣豪として知られ、新当流の奥義「一ノ太刀」を極めたと伝えられるほどの腕前でしたが、この状況ではどうしようもありませんでした。具教は十九人を討ち、百余名に傷を負わせる奮闘の後、矢倉に上って自害したと伝えられています(異説あり)。ここに伊勢国司北畠氏は滅び、具教の嫡子具房が同八年に、具房の跡を嗣いだ親顕が寛永七年(1630)に没したことにより、北畠氏の家系も断絶しました。