■【秀吉、小田原に宣戦布告】天正十七年(1589)11月24日
豊臣秀吉が北条氏政宛に宣戦布告の書状を送りつける。
天正十年(1582)六月、明智光秀の謀反により京都本能寺に織田信長が倒れると、備中高松城を攻囲していた羽柴秀吉は、急ぎ毛利氏と和を結んで引き返し、見事に光秀を討ちました。その後秀吉は織田家中で対立していた柴田勝家や信長三男の信孝を滅ぼすと、紀州雑賀党や四国の長宗我部氏、九州の島津氏らを次々に平定していきますが、小田原北条氏は上洛の意は示したものの、政務繁多を理由に出仕を引き延ばしていました。
この理由の中心となるのが、上野沼田領(群馬県沼田市)問題でした。本能寺の変の際には上野厩橋(同前橋市)には滝川一益がいましたが、一益の退去後は北条氏が手中に収め、甲信地方一帯で徳川家康と領土争いを繰り広げていました。やがて徳川・北条両氏の交渉により、甲斐一国と川中島四郡を除く信濃は徳川が、上野一国は北条が領することで話がまとまり和睦、家康は当時徳川方にあって沼田を領していた真田昌幸に対し、代替地を与えるので沼田を北条氏に渡すようにと命じました。しかし軍政両面における要衝・沼田は昌幸が武田氏時代に自力で奪い取った地であり、昌幸としては簡単に手放すわけにはいきません。怒った昌幸は家康の下を離れ、秀吉に直訴しました。
秀吉は昌幸と徳川・北条両氏から話を聞き、名胡桃(なぐるみ=同みなかみ町)だけは真田の所領と認めた上で沼田を北条氏に引き渡すよう裁定を下しました。昌幸は落胆したものの、さすがに秀吉の調停は拒みきれず、熱鉄を飲む思いで受け入れて潔く沼田を譲ると、北条氏は当主氏直の叔父氏邦に統治させ、氏邦は配下の猪俣能登守範直を城代として入れました。
しかし、この年の十月、昌幸配下の名胡桃城主・鈴木主水正重則が猪俣能登守に欺かれて城を奪われ、責任を感じた重則が自刃するという事件が起きました。昌幸が直ちに秀吉に知らせると、秀吉は烈火のごとく怒りました。いや、怒ったふりをしたという方が正しいかもしれません。秀吉は何かと理由を付けて出仕しようとしない北条氏の態度に業を煮やしていました。しかし北条氏は特に反抗的な態度を示しているわけでもなく、加えて当主氏直は家康の女婿ということもあって、討伐したくとも簡単には出来なかったという事情がありました。しかし、ここに格好の理由が出来たのです。
秀吉は北条氏討伐を決意すると、この日宣戦布告の書状を作成し、新庄直頼を使者として駿府の家康のもとへ届けさせ、家康から北条氏に伝えるよう申し送りました。翌春、秀吉は全国から二十万を超える大軍を集めて小田原へ迫り、北条氏は七月五日に降伏開城しています。